別れ

 昨日なのですが、僕の北海道に住んでる母親が自宅で後頭部を強打して倒れてる状態で発見され病院に運ばれました。

 兄弟の話によると手術はしたのですが、手の施しようがなく、長くてもあと数日だそうです。

 母は長崎県出身の人で僕の婆ちゃんと奈良県天理市で出会って、そこで父を紹介されて結婚して北海道に来たそうです。 

 信仰してる宗教活動にどの信者よりも熱心で、教えを忠実に守って生きてきた人生だったと思います。

 宗教に傾倒するあまり家族に対しては、あまり関心がない人でした。料理もお世辞にも上手とは言えずいつもフライドポテトかカレーが母の定番料理でした。

 風邪をひいたりして学校を休むと機嫌が悪くなり風邪をひいてふらふらな僕に容赦なく怒鳴ったりしてきて、そのときはとても怖かったのが今でも覚えています。

 母とのことを振り返ると、良くないことが沢山思い出されますが、僕にとって良い思いでもあります。

 真冬の夜の教会からの帰り道に、僕が冬道で滑って転んでは危ないからと母の背中に背負ってもらい雪道の中を家に帰ったのは今でも良く覚えていますし母の優しさのようなものを感じたりもしました。

 また僕がまだ小さい冬の寒い日の夜などは母の布団に潜り込んで足をくっ付けて一緒に寝たりしたことも良く思い出したりします。

 今、僕が母に対して思うことは、苦しむことなく人生を終えて、もし人間が生まれ変われるなら愛情豊かな家庭に生を受けて笑顔に満ちた新しい人生を送ってほしいと思ってます。

 明日は朝から母に最後のお別れをしに北海道に行ってきます、78年の母の人生、僕の知らない沢山の困難や苦労が沢山あったと思います。

 最後は安らかに生を終えてほしいと心から願ってます。 

 

発達障害、家族、学生編

 前にも書いたと思いますが、僕は出身は北海道の人口が2千人程度の田舎町で6人兄弟の5番目です。

 兄弟は姉、兄、姉、姉、僕、妹です。母親は宗教に傾倒してて家族のことには関心がない人でした。父親も今、振り返って考えてみれば同じで給料を自分の趣味などに使い家には殆どいれなかったので家族に対して関心はない人でした。

 父親は給料は当時は普通の家庭の平均以上に稼いでいたのですが、とにかく自分のことにお金を使い家にお金をいれないので、小さいころは良く穴の開いたズボンなどを履いたりしてました。上下揃ったジャージを着たりしてる同級生などを見て、いつも凄い!上下お揃いのジャージ着てると感じてたのを思い出します。

 食事も今にして振り返ってみると随分と酷く、普段はカレーかフライドポテト、それすら出ない日は、卵かけご飯か、それかご飯に水をかけて食べるだけというのも少なくなかったです、とにかく酷いものでした。

 兄弟は僕の上の姉はとても勉強も出来て頭が良く、近所や学校でも、頭が良いと評判でした。

 姉とは年が近かったので周囲からよく比較されたりしてました、僕も数学は出来たのですが、それでも人並みだったので姉に対しては今でも劣等感のようなものがあります。

 姉が高校に入って日曜日に図書館でバイトを始めたときには、職員の殆どが休みで姉が殆ど一人で図書館の窓口で利用者に応対してるのを見て凄いなと感じてました、僕も昔から本を読むのが好きだったので、姉が窓口で応対業務をしながら勉強をしてて、そこで僕が利用者として本を読んでるというのが良くありました、姉には劣等感があると同時に、同じ境遇で育ちながらも周囲から信頼されて生きてることに今でも尊敬してます。

 僕は学校では良くイジメの対象になったりしてました、集団から石を投げられて頭を怪我したり、ガラスに顔をぶつけられて頬にガラスが刺さったりしたりもしました。

 普通なら息子が怪我をしたら病院に連れて行って治療を受けさせるところですが、僕の親は、ある宗教でのお供え物を包んだりしてる和紙を千切って、僕の患部に貼ってお祈りをしたりしてました、これには僕も驚いてました。

 家庭でも上手くいかず、学校でも上手くいかなかった僕は、段々と家から出たい気持ちが強くなりました。

 中学3年生になったある日、学校で担任の先生が、三重県で働きながら高校に通えるところがあるとクラスで話をしてくれました。

 僕は、それにとても興味が沸き、先生に詳しく話を聞いて、三重県に行って働きながら高校に通おうと決心しました。

 母親に三重県に行って働きながら学校に行きたいと行ったところ、特に反対もされずに三重県行きがすぐに決まりました。

 三重県では紡績会社の工場でタオルに使う糸を製造する仕事をしました。

 高校は工場の同じ敷地内にあり、そこには全国の色々なところから沢山の人が集まってました。

 同級生は様々な環境で生活してきた人が沢山いて、何らかの事情で親元を離れ養子として育てられてきた人、家庭が貧困で家族の生活を支えるために来た人、親が暴力団の組長で家を出た人。

 今にして振り返ってみればバブルで日本中が沸きあがってた状況とは全く無縁な、日本の暗部が一つの場所に凝縮したようなものでした。

 寮生活もかなりのもので、高卒入社の先輩の中には高校時代にボクシングのミドル級で県大会3位になった人やサッカーで大きな大会に出た人などがいて、一人が悪いことをすると連帯責任で全員が正座させられてアントニオ猪木の張り手以上とも思えるような張り手をされることもしょっちゅうでした。

 最初は周囲とも上手く行ってたのですが段々と上手く行かなくなり、食堂で一人で食事をすることも年を重ねるにつれ多くなっていきました。

 修学旅行は一般の高校の人達の修学旅行とはかなり違っててバッグの中には沢山の缶ビールが入ってたり、「東京行くなら競馬やろ!なぁ?」と謎の問いかけをしてきて、東京に向かうバスの中で一生懸命に競馬新聞を読んで馬券の予想をする人など色々でした。

 僕は一緒に行動する同級生も殆どいなかったので、ディズニーランドのベンチで寝てると、同級生の女子の集団が話しかけてきて、一緒に遊んでくれるのかと思ったら、チケット使ってないならあたしたちにくれ!とチケットだけを僕から取っていなくなってしまうこともありました。

 高校では小中と違い、仲が悪くなるといっても抱えてるものが様々だったので、仲が悪くなっても見下したりするようなことはありませんでした、それはとても良かったことだと思います。

 今でも高校時代の同級生全員が幸せな人生を送っててくれたらと思ってます。

 

 

 

 

 

遺跡発掘の仕事、寮は刑務所以下だった。

 何年も前の話だが、姫路城近くで遺跡発掘の仕事を1ヶ月ほどしてたことがある。

 ハローワークでの求人のネット検索で「寮」「遺跡」「発掘」などのキーワードを入力して出てきたのが姫路の会社だった。

 僕の実家からハローワークに行くには何十キロも離れたハローワークにバスで行かないといけなかったために、直接会社に電話で問合せをして、働かせてほしいと電話で伝えたら履歴書持って会社まで来てくれと言われたので、荷物をまとめて姫路に行った。 

 フェリーや電車を乗り継いで姫路まで行って、やっとの思いで会社に着いて、建物を見たときに驚いた。

 会社は大きめのプレハブ小屋を二段重ねにしただけの掘っ立て小屋に毛の生えたような建物だった。

 会社を見た瞬間に家に帰りたくなったが何万もかけて姫路まできて稼がずに帰るわけににはいかないと思い会社に入って面接を受けた。 

 面接ではただの世間話しかしなくて、直ぐに会社の二階の寮に案内された。

 部屋は3畳程度の広さで壁は少し厚い程度のベニヤ板で仕切られてるだけで何故か天井近くで30センチほどの間が開いてた。

 TVと布団以外に何もない部屋で3時間ほど寝て、夕方になると作業員の人達が帰ってきて挨拶をしに行った。

 大半の人は挨拶をしてもまともに返事を返してこなかったが、土木はこんなもんだろうと思い、それは気にならなかったのだが、後で「寮長」だという人から寮のルールを説明されて、そのルールに驚かされた。

 その寮には「就寝時間」というのが決められてて、その時間は何と、「夜の7時から朝の7時まで」だった。

 僕が、就寝時間に対して疑問をいっても寮長は「それが寮のルール」と言って全く聞き入れてもらえなかった。

 部屋には蛍光灯があるのだが蛍光灯は点けるなと言われた。理由を聞くと、隣の部屋に灯りが差し込んで迷惑だから点けるなと言われた。

 TVは見てても良いのか?と聞くと、TVの光が壁で反射して隣の部屋に迷惑なので見るなと言われた。 

 ようするに夜の7時になったら眠たくなくても朝の7時まで大人しく寝てろとのことだった。

 気になって調べてみたのだが刑務所の就寝時間は夜の9時らしいし、それまでは当然部屋には灯りがついてて部屋は明るい。

 僕は刑務所以下の環境で生活をすることになってしまった。

 僕は当時、ある勉強に熱心で勉強を続けるために、寮に入ったその日から部屋の畳の上で正座をして体を丸めて携帯電話のライトを使って勉強をすることになった。

 仕事の方は遺跡の発掘ということで地面を慎重に掘って発掘でもするのかと思ったら全く違ってスコップで必死になって掘ることを命じられた。

 土器の破片などが見つかったら、土器を除いて土は一輪車に乗せて所定の場所に捨てろと言われたのだが掘るのに必死で土器が混じってるかどうかの確認など、僕にはどうでも良かった。

 そんな生活を2週間ほど続けていたときだろうか、仕事が終わって「寮」という刑務所以下の部屋に帰ってきて就寝時間まで時間があったので、近所のコンビニに買い物に行った時に民家から漏れる灯りを見たときに目から自然と涙が出てきた。

 あ~あそこには家庭があって家族皆で食卓を囲んで食事をしたり、その日の出来事を話したりしてるんだろうと思うと、涙が止まらなかった。

 そこで働いて一ヶ月ほど経ったころに「寮」を夜に脱出することにした。

 隣の部屋の人などに気づかれないように慎重に荷物をキャリーバックに詰め込んで、置き手紙に「このクソヤクザどもが!」と書いて脱出して直ぐ近くのバス停からバスに乗って北海道に帰った。

 翌日会社から電話が掛かってきて出たら会社の社長は物凄い怒ってたが、怒ってた理由は、僕が逃げ出したことではなく置き手紙の「このクソヤクザどもが!」に対してだった。

 僕はもう気を使う理由もなかったので「あんな刑務所以下の環境で人を生活させといてヤクザも同然だ!」というとそれに対してまた怒ってきた。

 結局、そこで働いた分の給料は払われることはなかったが、それでも全然良かった。

 あんな酷い環境で今も生活してる人がいて、その環境に順応してる人がいると思うと今でも恐ろしく感じる、ほんと抜け出すことができてよかった。

先日はすみませんでした。

 いつも皆さんには大変お世話になってます、また大変ご迷惑もお掛けしてます。今回は、私の発言で皆さんに不快な思いをさせてしまいどうもすみませんでした。

 皆さんに謝罪もしないまま、突然アカウントを削除してしまいどうもすみませんでした、とても大人気ないことをしてしてしまった自分の情けなさも感じております。

 本来なら直接、皆さん一人一人に謝罪しなければいけないのですが、このような形でしか謝罪できないことに情けなさを感じています。

 何人かの方にはお話してるのですが、私は継続した対人関係を築くのが困難な特性があります。そのことで今現在もとても迷惑をおかけしてる方もいて、とても申し訳なく感じています。

 小さいころから、周囲との関係は上手くいきませんでした、そのことが原因で小さいころは良く虐められたりもしました。数人の同級生から石を投げられて頭に怪我をしたり、ガラスに顔をぶつけられて頬にガラスが刺さったりしたこともあります。

 子供が、そういう目に遭ってるときは、本来なら親や教師が出てきて助けてくれる筈ですが、そのようなことはありませんでした。

 私の家は北海道の山と畑に囲まれた人口2000人程度の田舎町で、父親は私が小さいころから仕事で東京に出ておりました。

 母親は宗教に傾倒していて、子育てや世間にはあまり関心のない人でした。

 自尊心を形成できぬまま小さい頃を過ごし、中学を卒業すると、三重県にある工場内に高校や短大がある紡績工場に就職して寮に入り働きながら学校に通いました。

 そこには様々な事情で、自分が育ってきた地元を離れざるをえなかった人などが沢山いました。

 最初は上手くいってましたが、段々と上手くいかなくなり周囲から孤立することが良くありました。

 高校を卒業後は、塗装会社に就職したりしましたが、そこには色々な人がいて、暴力を受けたりして、肋骨にヒビが入ったこともありました。

 ずっと、そのような環境の中で生きてきて、きちんとした人間関係を築けぬまま、段々と人生に対しても悲観的になっていき何度か自ら命を断とうとしたことがあります。

 どのような環境で生きてきても周囲ときちんとコミュニケーションをとって生きてる人は沢山います、私の甘えの部分も多分にあると思います。

 今までは人間関係がダメになると修復しようと考えたことはありませんでした。

 今は人との繋がりがとても大事だと気づきました。それでも今回のようなことを起こしてしまうこともあります。

 私は常に、私の周囲の人が毎日、笑顔で一日一日をよりよく過ごせることを願ってます、もし私と関わることでそれができなくなるなら、それに対しては申し訳なく感じるし、そういうことはあってはいけないと思います。

 本当に今回はすみませんでした、大変申し訳ありませんでした。