発達障害、家族、学生編

 前にも書いたと思いますが、僕は出身は北海道の人口が2千人程度の田舎町で6人兄弟の5番目です。

 兄弟は姉、兄、姉、姉、僕、妹です。母親は宗教に傾倒してて家族のことには関心がない人でした。父親も今、振り返って考えてみれば同じで給料を自分の趣味などに使い家には殆どいれなかったので家族に対して関心はない人でした。

 父親は給料は当時は普通の家庭の平均以上に稼いでいたのですが、とにかく自分のことにお金を使い家にお金をいれないので、小さいころは良く穴の開いたズボンなどを履いたりしてました。上下揃ったジャージを着たりしてる同級生などを見て、いつも凄い!上下お揃いのジャージ着てると感じてたのを思い出します。

 食事も今にして振り返ってみると随分と酷く、普段はカレーかフライドポテト、それすら出ない日は、卵かけご飯か、それかご飯に水をかけて食べるだけというのも少なくなかったです、とにかく酷いものでした。

 兄弟は僕の上の姉はとても勉強も出来て頭が良く、近所や学校でも、頭が良いと評判でした。

 姉とは年が近かったので周囲からよく比較されたりしてました、僕も数学は出来たのですが、それでも人並みだったので姉に対しては今でも劣等感のようなものがあります。

 姉が高校に入って日曜日に図書館でバイトを始めたときには、職員の殆どが休みで姉が殆ど一人で図書館の窓口で利用者に応対してるのを見て凄いなと感じてました、僕も昔から本を読むのが好きだったので、姉が窓口で応対業務をしながら勉強をしてて、そこで僕が利用者として本を読んでるというのが良くありました、姉には劣等感があると同時に、同じ境遇で育ちながらも周囲から信頼されて生きてることに今でも尊敬してます。

 僕は学校では良くイジメの対象になったりしてました、集団から石を投げられて頭を怪我したり、ガラスに顔をぶつけられて頬にガラスが刺さったりしたりもしました。

 普通なら息子が怪我をしたら病院に連れて行って治療を受けさせるところですが、僕の親は、ある宗教でのお供え物を包んだりしてる和紙を千切って、僕の患部に貼ってお祈りをしたりしてました、これには僕も驚いてました。

 家庭でも上手くいかず、学校でも上手くいかなかった僕は、段々と家から出たい気持ちが強くなりました。

 中学3年生になったある日、学校で担任の先生が、三重県で働きながら高校に通えるところがあるとクラスで話をしてくれました。

 僕は、それにとても興味が沸き、先生に詳しく話を聞いて、三重県に行って働きながら高校に通おうと決心しました。

 母親に三重県に行って働きながら学校に行きたいと行ったところ、特に反対もされずに三重県行きがすぐに決まりました。

 三重県では紡績会社の工場でタオルに使う糸を製造する仕事をしました。

 高校は工場の同じ敷地内にあり、そこには全国の色々なところから沢山の人が集まってました。

 同級生は様々な環境で生活してきた人が沢山いて、何らかの事情で親元を離れ養子として育てられてきた人、家庭が貧困で家族の生活を支えるために来た人、親が暴力団の組長で家を出た人。

 今にして振り返ってみればバブルで日本中が沸きあがってた状況とは全く無縁な、日本の暗部が一つの場所に凝縮したようなものでした。

 寮生活もかなりのもので、高卒入社の先輩の中には高校時代にボクシングのミドル級で県大会3位になった人やサッカーで大きな大会に出た人などがいて、一人が悪いことをすると連帯責任で全員が正座させられてアントニオ猪木の張り手以上とも思えるような張り手をされることもしょっちゅうでした。

 最初は周囲とも上手く行ってたのですが段々と上手く行かなくなり、食堂で一人で食事をすることも年を重ねるにつれ多くなっていきました。

 修学旅行は一般の高校の人達の修学旅行とはかなり違っててバッグの中には沢山の缶ビールが入ってたり、「東京行くなら競馬やろ!なぁ?」と謎の問いかけをしてきて、東京に向かうバスの中で一生懸命に競馬新聞を読んで馬券の予想をする人など色々でした。

 僕は一緒に行動する同級生も殆どいなかったので、ディズニーランドのベンチで寝てると、同級生の女子の集団が話しかけてきて、一緒に遊んでくれるのかと思ったら、チケット使ってないならあたしたちにくれ!とチケットだけを僕から取っていなくなってしまうこともありました。

 高校では小中と違い、仲が悪くなるといっても抱えてるものが様々だったので、仲が悪くなっても見下したりするようなことはありませんでした、それはとても良かったことだと思います。

 今でも高校時代の同級生全員が幸せな人生を送っててくれたらと思ってます。